ドキュメンタリーとして今作を撮ろうと思った経緯は何でしょうか?
―今回の作品は愛子さんを追いかけた計8年間を観させていただいたという形ですが、恐らく藤川監督の前作『石巻市立湊小学校避難所(2012年8月公開)』からの繋がりだったと思います。改めて今回、愛子さんをメインにしてドキュメンタリー映画を制作しようと思った理由、『風に立つ愛子さん』という作品として形に残そうと思った理由をお伺いしたいです。
前作の『石巻市立湊小学校避難所』と今回の『風に立つ愛子さん』の作品は2部作だと思っているので、そのためには前作の話からしないといけない部分があると思います。
避難所の映画は、2011年に起こった東日本大震災後の半年間の集団生活を映画にしたものです。そこでは意識的に立場の違う人たちを選んで出演していただきました。例えば三代に渡り90年続く床屋さんをやっている人、小学生、福島からボランティアに来ていた方などです。その中でやはり愛子さんは、一人暮らし且つ高齢の女性という立場であり、出演を依頼した理由の一つはそこにありました。避難所の映画を2012年に公開し、全国で上映しましたが、この作品の公開が終わってから、自分の中でも収まりがつかないなという風に思いました。映画の公開は一区切りだけど、自分が被災地になってしまった石巻とこれからどう繋がっていくべきなのか、もっとやるべきことがあると思いました。
まだ2012年度時点では、震災の復興は遠い道のりだったので、自分なりに考えた時に、1人暮らしの高齢者の人がこれから仮設住宅に住みどうなっていくのか、どう生活していくのかを見つめたいという思いがすごくありました。ただ、その時はまだ明確に作品になるかはわからず、とにかく自分が接点として、現地と向き合いながら撮影を続けていくうちに、今作の形になったという感じでしたね。「絶対作品にするぞ」みたいなことではなかったというか。
―現場で愛子さんと接していくうちに、作品としての形が出来上がってきたのですね。
そうですね。今作では愛子さんが避難所で出会ったゆきなちゃんという小学4年生の子と心を通い合わせる姿や、津波で家が流されて大変なときでも、避難所で家族のような心の交流みたいなものが描かれています。愛子さんは結構お喋りをする人でして、人生を俯瞰するような話をするので、どういう人生を送ってきたのかということを知りたいと思うようになりました。
―愛子さんは、津波のことを「津波様」というぐらい、震災の被害にあったご自身の体験を少し違った視点で見られていますよね。
津波様という言葉を使う人は誰もいないですよね。この映画を見た人でも、「そんな人は見たことないですよ」と皆さんおっしゃいますし、そこに込められた意味は、意味深ではあるんだけど、実は重要な意味があると思っています。
言葉尻だけを取ると誤解されてしまいます。愛子さんは、どこか孤独で寂しさを抱えていますが、だからこそ人と人との繋がりを大事にしています。それが避難所という象徴的な場所でした。愛子さんはそこでの出会いをすごく大事なものとして捉えています。愛子さんの表現で、独特な言葉を使うのですが、なぜその言葉を使うのか、愛子さんの心の背景がわかってきた時に、心に迫ってくるものがありました。
今作を撮るために、半年間避難所で自らも生活をするほどまでに至った理由は何でしょうか?
きっかけは一番初めに避難所に行ったときに、ある小学生のお母さんに声をかけられたことです。
僕がカメラを持っていたら「あなたは何しに来たの?」と聞かれたんですよ。「どういう場所か見たかった」ということを言ったらその後、「ここに来る以上、何か持ち帰ってもらいたい。テレビや新聞で報道されている以外の話がいろいろある。」と言われたんです。それで2時間ぐらい喋って、リアルな震災直後の話、津波がきたときの話しや、その後の話をたくさん聞きました。「それを伝えてほしい」と言われました。知ってほしいと。
そのときに、何か力になりたいという気持ちが生まれてきました。
あと驚いたのは、現地の方々が明るかったんです。それは後からわかるのですが、明るくしようと意識的にそうしていたんです。図書室でお母さんたちと子供たちがよさこいを踊ったりして、みんな本当にキャッキャ言いながらやっている姿を見てちょっと驚きました。
あるとき、すごく綺麗な花を持ってきてくれた人がいて、津波で町全体が土色だった中でしたから、その鮮やかな赤い花を花瓶にさしたんです。そうしたら、風景がぱっと明るくなったんです。それを見て、お母さんたちが泣き始めたんですよ。「綺麗ね」って。その瞬間に、この様子をここで撮影して伝えるべきだと思いました。
だから僕は自発的に撮りたいということではなくて、感情が動いたことがきっかけでドキュメンタリーの撮影を始めることになりました。