東京都生まれ。1986年にテレビ朝日入社。ワイドショーやドキュメンタリー番組のディレクターを経て、『世界の車窓から』などのプロデューサーを経験。2002年より『徹子の部屋』のプロデューサーを担当している。
1974年の放送開始から44年目を迎え、放送11000回以上を数えるテレビ朝日の看板番組『徹子の部屋』。日本人なら誰もが知る伝説的トーク番組の裏側を田原敦子プロデューサーに、44年の歴史の中で「変えてきたもの」と「変わらないもの」を伺いました。
とにかく好奇心が旺盛でパワフル。いつも目の前に何かしら目標を立てていて本当に前向きな方です。私は人生にも四季のように節目があると思うんですが、黒柳さんには春と夏しかないんです。プライベートでもいろいろ相談するんですけど、仕事の悩みを相談した時に「人生というのは縄と一緒。縄に表面と裏面があるように、人生も良いことがあれば悪いこともある。悪い面もいずれひっくり返って良い面になるからめげないで」って言っていただいたことがあって。常に明るい気持ちにさせられています。
私より前のプロデューサーは定年間際のベテラン社員が当たり前で、いわゆる“名誉職”のようなポジションでした。それに比べると当時の私はとても若いプロデューサーでしたが、外野で見ていた頃から「謎の番組だな」という印象がありました。案の定、実際に現場へ入ってみると局内から「放っておかれている」存在で、特に番組PRをまったく行っていないところが気になりました。ノベルティグッズどころかポスター1枚すらない状態で、そこでまずは局内を含めて番組のイメージアップから手をつけ始めましたね。
当時はゲストにお招きしていたのも歌舞伎役者や陶芸作家のように伝統や流儀のある世界の方ばかりで、どこか高尚な番組に凝り固まっていました。そのままの作りでは視聴率アップも望めないと思っていた時に、『徹子の部屋』が番組ごと報道局からバラエティ班に移ったんです。それからバラエティ担当の若い人たちに影響を受けるうち、もっと若い人を意識した番組作りを考えるようになりました。そして、まずはゲストの人選を見直していこうということになり、当時のお笑い第4次ブームにも乗っかって、爆笑問題のような当時勢いのあった若手芸人を呼び始めたんです
最初の頃は「今のお笑いの人は面白くない。本物じゃない」って、正直あまり乗り気ではなかったです。なので、こちらからは「本物じゃなくてもいいんじゃないですか? 面白くなかったら面白くないということを番組の中でぶつけていただくのはいかがでしょう」と言って相談しました。一方で、ゲストでお招きする若手芸人の方にも「もしかしたら笑わないかもしれません。むしろダメ出しするかもしれませんが、それでもよかったらご出演していただけませんか」と正直に言ってアプローチをかけたのですが、案外、それでも皆さん出演して下さった。そこはご長寿番組の権威的な部分も誘因になったと思いますが、断らずに出ていただいて本当に感謝しています。
そうですね。黒柳さんはいろんなことを予習された上で収録に臨まれる方ですけれど、出始めのお笑いの方になると勉強のしようが無いですよね。だから、スタジオで初めてネタを見ることも多いんですけど、ブレイク中の芸人がネタをやっても笑わないことが当たり前なんです。それだけじゃなくて「あなたの芸ってどこが面白いの?」とか「もう終わりましたか?」とか、思ったことをはっきり言ってしまう。ある意味、それが今までの『徹子の部屋』に無かったアンバランスな魅力になって、「徹子さんカワイイ!」みたいな若い方々からの支持を得るだけでなく、視聴率にも跳ね返ってきたんだと思います。
前の週の金曜に打ち合わせをして、ほぼ毎週、月曜に3本、火曜に4本の計7本を収録しています。黒柳さんは長く生放送で活躍されてきた方なので、キチッと時間通りに収めて下さるのですが、特に仲の良い“イケメン”がお相手の時などは確信犯的に(笑)お話が長くなるので、そういう方をお招きする時はなるべく収録の順番を後ろに回すようにスケジュールを調整しています。
誰をゲストにお招きするかは週に一度の全体会議で決めています。そこは若手にもベテランにもプレゼンの権利が与えられているので、昭和の人気歌手の名前も出てくれば、いま人気の若手俳優の名前も出てきます。ジェネレーションギャップでお互いに「?」の連続ですが、最も重視しているのは「なぜ今、その人を呼ぶのか」という点で、2世代で活躍されている芸能人を親子でお招きするのもそうした理由からです。あと、他でなかなか見られないのは、離婚されたご夫婦がゲストの回ですね。別れて何年も経っているからこそ言える話というのもあって、お互いが「知らなかった」という表情を見せるところが新鮮です。
私たちの中では「大いなるマンネリ」と呼んでいるのですが、「どんなことがあってもトーク番組で行く」という番組の本筋を変えていないところにあると思っています。様々な人が関わる中でいろんなアイデアが出てくるんですけど、今後も本質的な部分は絶対に変えません。また「黒柳さんが一人で聞く」というところも大切にしていて、1回目の放送から台本を作らず、構成作家も入れずに、トークの流れを考えるのも黒柳さんご自身が行っています。セットの調度品の中には、長くずっと置かれている黒柳さんの私物もありますから、いつも変わらない「徹子の部屋」に視聴者の方も親しみを感じていただいているのではないでしょうか。
同じく『題名のない音楽会』も息の長い番組ですね。でも、テレビ朝日がご長寿番組の多いテレビ局かと言えばそうではなく、むしろ少ない局だと感じています。その上で『徹子の部屋』や『ミュージックステーション』のように「ここだけは!」という部分は大切にしていて、変えるべきところは短いスパンで変えていく。それによりメリハリのある局というイメージを感じていただけているのではないでしょうか。
この番組に30年、40年と携わっているスタッフばかりなので、それぞれ日々の体力作りを忘れず、黒柳さんのパワーに引っ張られながら皆で50周年を迎えられたら幸せです。これから放送業界を目指す方々も、自分で番組を作るというのは本当に面白い体験なので、夢を諦めずに実現させてください。最初にお話しした黒柳さんの言葉のように人生というのは「縄と一緒」です。時にはめげることがあるかもしれませんが、努力を続けていれば、いずれ良いことがやってくるはずです。
東京都生まれ。1986年にテレビ朝日入社。ワイドショーやドキュメンタリー番組のディレクターを経て、『世界の車窓から』などのプロデューサーを経験。2002年より『徹子の部屋』のプロデューサーを担当している。
1974年の放送開始から44年目を迎え、放送11000回以上を数えるテレビ朝日の看板番組『徹子の部屋』。日本人なら誰もが知る伝説的トーク番組の裏側を田原敦子プロデューサーに、44年の歴史の中で「変えてきたもの」と「変わらないもの」を伺いました。
とにかく好奇心が旺盛でパワフル。いつも目の前に何かしら目標を立てていて本当に前向きな方です。私は人生にも四季のように節目があると思うんですが、黒柳さんには春と夏しかないんです。プライベートでもいろいろ相談するんですけど、仕事の悩みを相談した時に「人生というのは縄と一緒。縄に表面と裏面があるように、人生も良いことがあれば悪いこともある。悪い面もいずれひっくり返って良い面になるからめげないで」って言っていただいたことがあって。常に明るい気持ちにさせられています。
私より前のプロデューサーは定年間際のベテラン社員が当たり前で、いわゆる“名誉職”のようなポジションでした。それに比べると当時の私はとても若いプロデューサーでしたが、外野で見ていた頃から「謎の番組だな」という印象がありました。案の定、実際に現場へ入ってみると局内から「放っておかれている」存在で、特に番組PRをまったく行っていないところが気になりました。ノベルティグッズどころかポスター1枚すらない状態で、そこでまずは局内を含めて番組のイメージアップから手をつけ始めましたね。
当時はゲストにお招きしていたのも歌舞伎役者や陶芸作家のように伝統や流儀のある世界の方ばかりで、どこか高尚な番組に凝り固まっていました。そのままの作りでは視聴率アップも望めないと思っていた時に、『徹子の部屋』が番組ごと報道局からバラエティ班に移ったんです。それからバラエティ担当の若い人たちに影響を受けるうち、もっと若い人を意識した番組作りを考えるようになりました。そして、まずはゲストの人選を見直していこうということになり、当時のお笑い第4次ブームにも乗っかって、爆笑問題のような当時勢いのあった若手芸人を呼び始めたんです
最初の頃は「今のお笑いの人は面白くない。本物じゃない」って、正直あまり乗り気ではなかったです。なので、こちらからは「本物じゃなくてもいいんじゃないですか? 面白くなかったら面白くないということを番組の中でぶつけていただくのはいかがでしょう」と言って相談しました。一方で、ゲストでお招きする若手芸人の方にも「もしかしたら笑わないかもしれません。むしろダメ出しするかもしれませんが、それでもよかったらご出演していただけませんか」と正直に言ってアプローチをかけたのですが、案外、それでも皆さん出演して下さった。そこはご長寿番組の権威的な部分も誘因になったと思いますが、断らずに出ていただいて本当に感謝しています。
そうですね。黒柳さんはいろんなことを予習された上で収録に臨まれる方ですけれど、出始めのお笑いの方になると勉強のしようが無いですよね。だから、スタジオで初めてネタを見ることも多いんですけど、ブレイク中の芸人がネタをやっても笑わないことが当たり前なんです。それだけじゃなくて「あなたの芸ってどこが面白いの?」とか「もう終わりましたか?」とか、思ったことをはっきり言ってしまう。ある意味、それが今までの『徹子の部屋』に無かったアンバランスな魅力になって、「徹子さんカワイイ!」みたいな若い方々からの支持を得るだけでなく、視聴率にも跳ね返ってきたんだと思います。
前の週の金曜に打ち合わせをして、ほぼ毎週、月曜に3本、火曜に4本の計7本を収録しています。黒柳さんは長く生放送で活躍されてきた方なので、キチッと時間通りに収めて下さるのですが、特に仲の良い“イケメン”がお相手の時などは確信犯的に(笑)お話が長くなるので、そういう方をお招きする時はなるべく収録の順番を後ろに回すようにスケジュールを調整しています。
誰をゲストにお招きするかは週に一度の全体会議で決めています。そこは若手にもベテランにもプレゼンの権利が与えられているので、昭和の人気歌手の名前も出てくれば、いま人気の若手俳優の名前も出てきます。ジェネレーションギャップでお互いに「?」の連続ですが、最も重視しているのは「なぜ今、その人を呼ぶのか」という点で、2世代で活躍されている芸能人を親子でお招きするのもそうした理由からです。あと、他でなかなか見られないのは、離婚されたご夫婦がゲストの回ですね。別れて何年も経っているからこそ言える話というのもあって、お互いが「知らなかった」という表情を見せるところが新鮮です。
私たちの中では「大いなるマンネリ」と呼んでいるのですが、「どんなことがあってもトーク番組で行く」という番組の本筋を変えていないところにあると思っています。様々な人が関わる中でいろんなアイデアが出てくるんですけど、今後も本質的な部分は絶対に変えません。また「黒柳さんが一人で聞く」というところも大切にしていて、1回目の放送から台本を作らず、構成作家も入れずに、トークの流れを考えるのも黒柳さんご自身が行っています。セットの調度品の中には、長くずっと置かれている黒柳さんの私物もありますから、いつも変わらない「徹子の部屋」に視聴者の方も親しみを感じていただいているのではないでしょうか。
同じく『題名のない音楽会』も息の長い番組ですね。でも、テレビ朝日がご長寿番組の多いテレビ局かと言えばそうではなく、むしろ少ない局だと感じています。その上で『徹子の部屋』や『ミュージックステーション』のように「ここだけは!」という部分は大切にしていて、変えるべきところは短いスパンで変えていく。それによりメリハリのある局というイメージを感じていただけているのではないでしょうか。
この番組に30年、40年と携わっているスタッフばかりなので、それぞれ日々の体力作りを忘れず、黒柳さんのパワーに引っ張られながら皆で50周年を迎えられたら幸せです。これから放送業界を目指す方々も、自分で番組を作るというのは本当に面白い体験なので、夢を諦めずに実現させてください。最初にお話しした黒柳さんの言葉のように人生というのは「縄と一緒」です。時にはめげることがあるかもしれませんが、努力を続けていれば、いずれ良いことがやってくるはずです。
1974年に始まったテレビ朝日の看板トーク番組。司会の黒柳徹子が自分の「部屋」に多彩なゲストを招き、自由かつ軽妙なトークを繰り広げる。放送44年目、放送回数は11000回以上を数え、2011年には同一司会者による番組の最多放送回数でギネス世界記録に認定された。番組の会話データをもとにした黒柳徹子のアンドロイド「totto」のYouTuberデビューなど、新しい取り組みにも積極的。2014年に放送開始時間を正午に移し、ますます日本のお昼に欠かせない存在になっている。
【番組データ】徹子の部屋
テレビ朝日毎週月曜〜金曜 正午~午後0時30分
出演者:黒柳徹子
(Profile)
田原敦子(たはらあつこ)プロデューサー
東京都生まれ。1986年にテレビ朝日入社。ワイドショーやドキュメンタリー番組のディレクターを経て、『世界の車窓から』などのプロデューサーを経験。2002年より『徹子の部屋』のプロデューサーを担当している。